「ありがとう。言葉は、言葉だけなのに、でも、結局、言葉が嬉しいわ」
生まれつき目が見えない子供に、
空の青さを説明する件で、

『空の青さって、どんな感じ?』

『夏の晴れた日に、海岸沿いの坂を自転車で下っているときの、
頬に当たる風みたいな感じだよ。』
市販のホットケーキミックス、記載の分量から牛乳を20ccほど減らして溶かしバターとみりんを各大さじ1足すだけでびっくりするほど喫茶店の味に。オススメ。
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。「デタッチメント」的報道はストレートな事実しか報道しない。その出来事がどういう文脈で起きたことなのか、どういう意味を持つものなのか、私たちはその出来事をどう解釈すべきなのかについて、何の手がかりも提供しない。そこに「主観的願望」が混じり込むことを嫌うのである。
「コミットメント」的報道は逆にその出来事がある具体的な個人にとってどういう意味を持つのかしか語らない。個人の喜怒哀楽の感情や、信念や思い込みを一方的に送り流すだけで、そのような情感や思念が他ならぬこの人において、なぜどのように生じたのかを「非人情」な視点から分析することを自制する。そこに「客観的冷静さ」が混じり込むことを嫌うからである。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離であり、それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。